ポール・リーチ先生
「忘れえぬ慕情」
リーチ師はフランス語教授というより不可能を可能にする手品師でした。一年の終り頃、「日本とフランスで初めての合作映画を作るのですぐ行きなさい」と、松竹大船撮影所に送り込まれ、熱いライトの下に立たされたのは木下恵介監督とイブ・シャンピ監督の間でした。
「お互いに云っている事が分からないので通訳しなさい」とのことです。仕方なくシャンピの言葉のなかで分かるものだけを自分流に組み合わせて木下さんに伝えましたが、段々お二人の演出が噛み合わなくなって来たと思われた時、昼食の休憩となりました。
食堂で仲睦まじいシャンピさんと岸恵子さんのテーブルを前に、このままでは折角の合作をぶち壊す元凶になりかねないので何とか脱出しなければと考えていたところ、監督から明日ジャン・マレーが入るので彼の所に先に行ってくれとのこと。
翌日マレー氏の所に行くと、撮影に使う犬のことでごねており "Cherchez le chien !"との第一声。「私は通訳で犬捜しではない!」と応えた私は、驚く同氏を後に脱出しました。後で松竹はリーチ先生に謝ったようですが、私には2-3日分の通訳料をくれました。完成した映画は「忘れえぬ慕情」(Typhon sur Nagasaki)となりました。
30年近くたったある日、偶然山の手線の車内で先生に出くわしたとき、「大船撮影所は潰れました。オモシロイです」と云われ、記憶力の確かさに驚きました。
荒井雄吉(60外仏)
婚約式のユーモア
フランス語に関しては、私はリーチ師の不肖の弟子である。しかし、人生の節目でずいぶんお世話になった。1976年夏、ハンブルクに駐在していた私にリーチ師から葉書が届いた。近くハノーヴァーのイエズス会に行くとの簡単な文面である。早速、駆けつけた私を迎えた師は、翌日、ヒルデスハイムの教会を案内してくださった。話し足りないリーチ師を振り切って、私はデットモルトに仕事があると辞去した。実は、翌年7月に結婚をすることになる、日本人の音楽留学生に会いに行くのも目的であった。
その年末一時帰国した私は、1月元旦にクルトゥールハイムで師に婚約式をしていただいた。彼女がデットモルトの音楽大学生と知り、「昨年はだましたな!」と眼を剥かれたものの、式の祝辞では彼女に「あなたはやがてロシアの指揮者が好きになるでしょう、その時は3回考えなさい」と言って祝福してくださった。幸い夫婦円満である。
小野 孝(62外仏)
リーチ先生の"味"
先の大戦時に人種的同胞に銃を向けなければならなかったフランス陸軍伍長が、無常をカトリック的に解釈して神父になられたのがリーチ先生で、ドーデの「最後の授業」を思い出させるが、リーチ先生の授業は神戸弁で「どーでー?」と言った具合で、文明批評一杯で面白いことこの上なかった一方、大いに困ったことも多々ある。
その極まりがフランス語の発音の秘訣伝授である。 我々生徒も一生懸命努力はしているが要領が掴めない。 そこでもどかしさも極致に至ったリーチ先生は、一人ひとりの口に指を突っ込んで、舌を押えたり唇をひっぱったりして正しい発音を指導してくれた。そこで気になって「先生、トイレのあと手を洗いましたか?」。リーチ師いわく「Les Franc,ais ne se lavent la main. (フランス人は手を洗わない)」。
一同トイレに駆け込んでげーげーやったが、後年フランス人に発音を褒められるたびに、リーチ先生の"味"を懐かしく思い出すのである。
細谷博 (63外仏)
聖書に残された思い出
リーチ先生のギャグ攻撃に晒されたせいか、在学4年間(1960-64)、Molie`reの「気で病む男」、「寝取られ亭主」を演じる破目になった。
1961年の春休み。AUVIT (Amitie's Universitaires entre Vie^tnam, Indochine, Thailande)に参加、菅 佳夫、林 朗也、茂木敬司氏ほか13名でフランス郵船に乗り、香港、ベトナム、マラヤ、タイの大学生と交流できたのはリーチ先生のお陰だ。
1965年の夏、リーチ先生の引率で学生たちと欧州旅行をした。スペインで、早朝ミサの侍者を勤めた晩は、リーチ元伍長殿の従卒に変身。Cervezaと calamar a la plancha(ビールとヤリイカの鉄板焼き)で酔い痴れ、gitane(フランスのきついタバコ)を燻らせフラメンコを堪能した。
晩年、リーチ神父様はSJハウスで仏語聖書講座を開かれた。随所に書き込みのある聖書(遺品)は私の宝物である。
大野 厚(64外仏)
ぺぺ・リーチ
リーチ師の思いがけない面を知ることになったのは、娘達の小学校受験に際してでした。どんな皮肉を言われるかを覚悟していった私たちに「コネ?」と目を剥くかと思いきや「洗礼の時のあの赤ん坊がこんなになったか」と、目を細め早速力を発揮?して下さいました。その後の好々爺ぶりは私たちを呆然とさせるものがありました。
ポケットにゴミだらけのショコラを忍ばせ娘達が訪ねて行くのを楽しまれたりもしましたが、フランス語を解さない我が家族に向かい"Non, mais..."と言葉を継ぎ、シャルダン、アヌイ、ジロドゥから時事問題までフランス人特有の指を振りたててしゃべる様は学生時代のままのリーチ師でありました。
Monologueの応酬のようになる会話は「フランス語での禅問答」の様を呈し、家人を面白がらせていました。R.I.P.
遠藤貴久子(65外仏)
「風は吹き、雲は流れ...」
教えていただいたフランス語は何一つ頭に残っていないが、自分は坊主である前に教師であるとか、人間である、とか教室で何回か叫ばれたこと、たまたま差し上げた年賀状には「むちゃくちゃなフランス語でもよいから話せ」と叱咤されたことははっきり覚えている。学科での4年間は、先生の一挙手一投足を教室の片隅からじっと眺めていただけだった気がする。
卒業後、長いアフリカでの勤務生活があって、再び先生に接したのは晩年の4年間。大船教会での司牧のお勤めも終え、病気もされ、お年を召され、継ぎの当たったズボンをはいた先生の周りに、かっての教え子たちの姿は少なかった。そして風のように逝ってしまった。恐るべき先生への讃歌は「風は吹き、雲は流れ、花は咲く」でよいだろうか。
風間 烈(65外仏)
リーチ先生の名代
「出る杭は打たれる!それでも出なくてはいけません!」リーチさんには勇気、チャレンジの大切さを教わったと思う。「それでは私の代わりに貴方の先輩の結婚式に行って下さい」。 しまった、と思ったがもう遅い。美味しい物を食べたいですか、との質問に常に腹を空かせている寮生として素直にハイと答えた結果がこれだった。その後は用心して、一応リーチさんに挨拶を用意して貰った。顔を見た事もない大先輩はアジア・アフリカ研究所に勤めていた。
披露宴では最初に研究所理事長の祝辞、次に新郎の恩師の名代が指名された。予想された事態でもあったのでフランス語の祝辞を読み上げ、これで役は済んだと思った。ところが、司会が日本語に訳せと云う。四苦八苦の結果、名うての難文が更に難解な日本文になった。宴会場で詰襟姿は私一人だった。
初めて会った優しい顔の先輩は石澤良昭と云う人だった。
田島将男(70外仏)
リーチ先生との思い出
決して遅刻してはいけない授業の日に限り、横浜からの京浜東北線は、必ず新橋の手前で信号停止となる。そっと足音を忍ばせて教室に入り、座ろうとすると、リーチ先生とパッと目が合う。「ヨコハマのオカヤマァ!」と叫ばれ、わざと眉間にしわをよせられ、うんと怖い顔をされる。が、しかし目の奥が笑っている。ああ、今日も立たされたままでリーチ先生の熱演独り舞台の授業をポカンと眺めることになるのだ。ときどき、鋭い質問が「ヨコハマのオカヤマ」めがけて飛んでくる。もちろん、ちんぷんかんぷんで何も答えられない。オカヤマの前に、必ず枕詞のように「ヨコハマの~」がつく。言葉遊びのお好きなリーチ先生はこの地名並びで韻をふむ呼び方を面白がっておられるのだ。そんなある日、リーチ先生に呼ばれ、「あなたは卒業したいか?」ときかれた。「はい。」と答えると、「では、研修旅行についてきなさい。」と言われた。なんと説得力に満ちたすばらしい脅迫!・・・
70日間のヨーロッパ。フランス滞在の後、スペイン、イタリア、ギリシャ、そして旧ユーゴスラビアの山の中まで中世のフレスコ画を求め連日山の中の古い教会を巡る。そんな旅の疲れに不満の出る中、とにかく卒業がかかっているので、一言も文句をいわず、ぴったりリーチ先生について回る。食事のとき、いつもリーチ先生は一人でテーブルにつかれ、赤ワインを一本注文される。そして、ご自分のグラスにつがれた残りを必ず分けてくださる。和食が食べたいと文句の出る中、赤ワインをグビグビ飲んで、なんでも食べ、やっと卒業にこぎつけた生徒に、リーチ先生は「フランス語学科の飲みぶくろ」という有難いあだ名をつけて下さった。そして、決して悪い虫のつかないお嬢様がたのことは、「マドモアゼル ナフタリン」と呼ばれた。その後何度かヨーロッパを訪れる機会はあったが、あのような毎日驚きと感動と我慢に満ちた旅行は二度とない。珠玉の思い出となっている。
岡山康子
ポール・リーチ先生略歴
履歴・職歴
1912.07.14 |
フランス国バ・ラン県エショー村に生誕 |
1933.10 |
ベルギー、フロレーヌ高校教員 |
1938.10 |
フランス、アミアン高校教員 |
1942.11 |
自由フランス軍従軍。ドイツ語通訳官 |
1943 |
アルジェリアでイエズス会司祭に叙階 |
1946.07 |
フランス、フルヴィエール神学部卒業 |
1947.06 |
ベルギー、アンギャン大学大学院神学専攻終了 |
1948.09 |
来日 |
1953.04 |
上智大学助教授 |
1954.04 |
上智大学教授 |
1958.04 |
上智大学外国語学部フランス語学科教授 |
1975.12.01 |
フランス国教育功労オフィシエ章受賞 |
1978.04 |
上智大学外国語学部特遇教授 |
1983.04 |
上智大学名誉教授。大船カトリック教会司祭 |
1983.11.24 |
フランス国レジョン・ドヌール・シュヴァリエ勲章受賞 |
1986. |
日本国勲四等旭日小受賞 |
1995.06.29 |
S.J.ハウスにて死去 |
主要著書
1972 『人間を問う作家たち』みすず書房
1975 『現代フランス語法辞典』(共著)大修館書房
1978 『現代フランス類語辞典』(共著)大修館書房
1983 『神を問う作家たち』みすず書房
功績
- 1958年の上智大学外国語学部フランス語学科創設に際しては、人員・カリキュラム等の作成等その中心となった。
- 1964年の東京オリンピックに際しては、組織委員会からの委嘱で学生通訳養成。
- 上智大学教授のかたわら、東京外国語大学、早稲田大学、武蔵大学、東京日仏学院で講師としてフランス文学を講義。
- 南ヴェトナムおよびアンコールワットへの研修旅行、夏季休暇を利用した学生と卒業生の欧州研修旅行をしばしば実施。特に、前者は、上智大学石澤良昭元学長のアンコール遺跡保存事業(ソフィア・ミッション)に発展した。
Memories 恩師への謝辞