HOME > ニュース > お知らせ > 報告3-「長崎の教会群とキリスト教関連遺産めぐり」と「長崎県・上智大学連携シンポジウム」参加ツアーニュース

報告3-「長崎の教会群とキリスト教関連遺産めぐり」と「長崎県・上智大学連携シンポジウム」参加ツアー

2015年07月23日

ツアー報告第3弾です。五島列島から長崎県へ戻り、旅の後半2日間、濃密な時間を過ごしました。

3月9日 大浦天主堂

早朝7時から、当巡礼団に特別に許可をいただいて、国宝大浦天主堂にてごミサがたてられました。
主司式は高祖理事長。ドイル先生、山岡先生、アイダル先生、竹内先生、川村先生、アントニウス神父、アルン神父の8名の上智の神父様による共同司式でした。

こちらの教会は、まさに弾圧による250年の潜伏期間を経た「信徒」がプチジャン神父によって「発見」された場所であります。
日本人伝道士バスチャンは殉教する前に「7代経ったら、コンフェソーレス(聴罪士)が大きな黒船に乗ってやって来る」と予言していました。
それから二百数十年経った幕末期に、バスチャンの予告どおり、神父が黒船に乗ってやって来ました。

大浦天主堂ができた頃は、まだ禁教はとかれていなかったので、当初、プチジャン神父は信者の子孫を探すために、散歩をよそおって、浦上の方にでかけて行きました。
村人が神父と接触することは禁じられていたために、神父は畑を耕す農夫に道を尋ね、さりげなく話をするきっかけをつかもうとしました。
道で遊んでいる子供達にはお菓子をあげて、食べる時に十字でも切りはしないかと観察したり、時には黒い神父の衣服姿で村人の前でわざと落馬までして、キリシタンらしい思いやりを見せてくれはしまいかと、文字通り捨て身で一所懸命信者を探したようです。

そんなある日、役人が見張る目もあるというのに、老若男女と子供15名ほどの信徒が浦上村から小舟をこいで天主堂にかけつけて、プチジャン神父に迎え入れられました。
そして「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(わたしたちはあなた様と同じ心でございます)」と信仰を告白し、「サンタマリアのご像はどこ?」とマリア像を探したのです。

このことは、プチジャン神父により報告され、当時のヨーロッパにも驚きと感動を与え、今日でも世界宗教史上の奇跡とされています。
そのような聖堂に自分がいて、ごミサにあずかり、卒業してから30年以上も経ってから上智の校歌を皆さんと心を合わせて歌う日が来ようとは、夢にも思っていませんでした。
この日の午前中は、あいにくの大雨でしたが、それも天からの恵みの雨と感じながら、しみじみとした気持ちで、大浦天主堂をあとにしました。

大浦天主堂
大浦天主堂

3月9日 日本二十六聖人記念碑と記念館

長崎が原爆被害にあったのち、二十六聖人の殉教地を公園に変え、昭和31年に長崎県はそこを史蹟として指定。
その敷地内に昭和37年、舟越保武作の二十六聖人記念碑が建てられ、今井兼次の設計によって、記念館が建てられました。

この二十六聖人は、1597年に京都から長崎まで1000キロの道のりを1か月をかけて歩いたのちに、十字架につけられて殉教しました。
最年少の12歳から、最年長の63歳まで。その国籍は日本人が20名、スペイン人4名、ポルトガル人1名、メキシコ人1名でした。

記念館の内部は、撮影できなかったのですが、館内を流暢な日本語でご案内してくださったのは、記念館でのお仕事が18年になる館長のデ・ルカ・レンゾ神父様でした。
レンゾ神父様は、アルゼンチンのご出身のイエズス会の神父様。今回の巡礼ツアーの中心となられた上智のカトリックセンター長ホアン・アイダル神父様の後輩にも当たられ、教皇フランシスコから直接教えを受けたそうです。

館内には、ヨハネ・パウロII世が来日された折の写真があり、ピタウ先生も写っていらして、思わず皆で「ピタウ先生!」と写真を示して喜びました。

記念館の2階には、今井兼次の設計で「栄光の間」と呼ばれる特別展示室があり、聖堂を思わせる静寂なる空間となっていました。

二十六聖人

3月9日 長崎歴史文化博物館

博物館

博物館で開催中の、世界遺産推薦記念特別展「聖母が見守った奇跡」を見学しました。
博物館では、上智からの巡礼ツアーということで、かなり詳しい人たちが来るのではないか、とお若い学芸員さんは「緊張しています」とおっしゃっていましたが、非常にわかりやすい解説をして下さいました。

マリア観音は、キリスト教弾圧の時代に観音像をマリア像に見立てて信仰の対象としていたものです。多くは中国の福建省の徳化窯などで造られて、日本に輸入されて来たものです。
子供を抱えた観音像は、一般的にも人気がありましたが、問題は、「何」を所持していたかではなく、「誰」が所持していたかにありました。
「浦上三番崩れ」の潜伏キリシタン検挙の折には、信徒の家のマリア観音は多くが没収となりました。

絵画「親指のマリア」は、17世紀後期のイタリア製の絵です。衣から親指が出ていることからこの名称で呼ばれます。イタリア人のイエズス会士が布教のために所持していたものでしたが、逮捕され江戸で新井白石の取調べを受けて没収となった絵です。涙するマリア様が暗示的です。

非常なインパクトをもって迫って来るようなお掛け絵「受胎告知」は作者不詳ですが、平戸市生月の和様化された聖画です。聖母マリアが懐妊を告げられた場面ですが、羽を背負う男が大天使ガブリエル、子供を抱く女性が聖母マリア、上に大きく描かれているのは父なる神ゼウスと推測されています。

ひょうたんを下げて、ご機嫌な様子で踊っているのは、元来中国の仙人などを表したものと思われますが、「イナッショさま」と呼ばれ、信仰の対象でした。
「イナッショさま」とは、イエズス会の創始者イグナチオ・ロヨラのことです。
一緒に写っている珠は、紙のこよりで結ばれたロザリオの珠で、イナッショさまと一緒に専用の木箱に納められていたものです。

3月9日 長崎県・上智大学連携シンポジウム

午後1時から、「長崎のキリスト教伝統と未来」というタイトルで、個別の発表とシンポジウムが行われました。
会場は長崎ブリックホールの国際会議場。立派な建物でした。
折から、同じホールの別会場で、北島三郎のコンサートも行われる日で、両者への参加者がそれぞれ行き先を間違えることがないように会場への誘導がなされました。

会場には、私たちのツアーも含めて300名ほどの出席者。
上智の高祖理事長の挨拶に始まり、シンポジウムの終了までの約5時間は、とても書ききれず、写真のとおり、配られた資料も多かったです。

印象に残ったお話を少しだけご紹介いたします。
それは、長崎で信仰教育が根付いた理由です。
そこにはセミナリオやコレジオ、養護施設などの慈恵院の存在が大きく関わっていて、可視的な信仰の現場であったゆえ......ということです。
地理的に、長崎に海外からキリスト教が伝来しやすいのはわかる。その影響でキリシタン大名が出たのもわかる。
しかし、その先です。
すさまじい弾圧にあっても、キリスト教が250年も途絶えずに、神父もいない環境で、きちんとキリスト教独自の暦や文化を維持し、信仰を守りぬけたのはなぜか?
そこには、日本人の生真面目さと、教育、文化程度の高さがあったからだと以前ピタウ先生がなさっていらしたお話もよみがえって来ます。

プチジャン神父の側から言えば、大浦天主堂での出来事は「信徒発見」ですが、その昔、予言士バスチャンが、迫害があっても、7代あとにはコンフェソーレス(聴罪士)が来ると言われたことを信じ続けて、その時に信徒側からする3つの質問までも決まっていたのです。
「独身ですか?」「ローマの親方様(法王のこと)を信じますか?」「サンタ・マリアを信じますか?」
この条件にかなったプチジャン神父との遭遇は、信徒の側から見たら、「信徒発見」ではなく、まさに長年待ち望んだ「神父発見」だったのではないか......とのお話もありました。
そして、シンポジウムでは、パネル司会者の上智大の川村信三神父様が「少し無理やりになってしまうのですが」と前置きをなさって、他の登壇者の全員に確認をとるように次のようにまとめられました。

『つながり』という言葉をキリスト教の伝統と未来のキーワードにすることができるのではないでしょうか?
16世紀からつながった信仰を見せることができる場、それが長崎なのではないかと思います。
会場からは大きな拍手が起こりました。

シンポジウム

3月10日 遠藤周作文学館

巡礼旅行もいよいよ最終日、突如、雪がちらつき、冷たい強風の吹く日となりました。
この日は外海(そとめ)地区をまわりました。
外海は、遠藤周作の「沈黙」の舞台ともなったところです。

現在遠藤周作の文学館がある所には、昭和62年にまず「沈黙の碑」が設置されました。碑にはこのような言葉が刻まれています。
「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりにも碧いのです」。
平成8年に遠藤周作が亡くなったあと、平成12年に同じ場所に「遠藤周作文学館」が開館しました。

遠藤周作については、バスの中で片山はるひ先生がお話をして下さいました。
『沈黙』は、遠藤周作が最初つけたタイトルではなく、編集者が提案したものだったそうです。著者が最初考えていたタイトルは、「神の存在」だったとのこと。そして、この「沈黙」というタイトル自体が、実は「神の存在」を示すものになっていることも教えて下さいました。

「いない存在は、沈黙もしない。
また、殉教は我慢比べの雄ではなく、殉教の中心は神の恵みであり、その力を与えられて殉教する者はした。
けれども、神はまた、転んだ者とも共に在った」

この、片山先生のお話を伺って、私は高校から大学にかけて次々と読んだ遠藤周作のキリスト教関連作品が当時は異端視されていたけれども、自分のキリスト教観に非常な影響を与えられていたことを思い出しました。

文学館で、私の目に留まったのは、遠藤周作が書いた次のような趣旨の文章でした。
「上智大の神父様に、私があまりにも棄教した人のことばかりを聞くので、『どうしてあなたは殉教した人ではなく、転んだ人(棄教した者)の話ばかりを聞きたがるのか』と聞かれたことがあります。私にとっては、棄教した者が自分と無関係の存在には思えず、むしろ彼らの方にこそ自分との共通点を見出すのであります」

私にとってのキリストは、踏み絵に苦渋の思いで足をかける者に、
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあおう。そのために私はいるのだから」(『沈黙』より)
と声をかける存在に他ならないと再認識した文学館への訪問でした。

沈黙の碑

3月10日 サン・ジワン枯松神社

今日ご紹介する枯松神社は、日本でも珍しいキリシタン神社です。通称「枯松さん」。
人目を避けるように建てられたため、黒崎地区の山中にあります。石階段の参道をかなり登ったところにありました。
祭られているのは、伝道士バスチャンの師にあたる外国人宣教師サン・ジワンで、「サン・ジワンさま」と親しまれている方のようです。

長崎に来て、必ずしも全国的に名前が知れ渡ってはいなくても、限定的な地域で、とても有名な宣教師が少なくないことを実感しました。
たとえば、五島で触れたアルメイダ師のお名前を冠した病院、幼稚園が大分にあり、大分あたりまでは名前が届いている方なのだと推測します。
この次に訪れる出津の「ド・ロさま」は、今でも「ド・ロさま」と慕われ、長崎のお土産に「ド・ロさまそうめん」もあるくらいです。

さて、この枯松神社に祭られる、外海のキリシタンが崇拝していた「サン・ジワンさま」がどんな人物であったのか、実は歴史上にしっかりとした記録は残ってないそうですが、亡くなる前に「私が死んだら、海の見えるところに葬ってください。私の見える範囲で人々を守ります」という言葉を残されたとのことで、地域の人に慕われていたようです。ちなみに「サン」は「セイント」ということで、通常聖人につけられますが、「サン・ジワンさま」は正式に聖人になられた方というわけではなく、それほど人々の尊敬を集めていたことを表す敬称となっています。

「サン・ジワンさま」宣教地域は、外海の中でも、主に黒崎の松本地区で、そこは佐賀・鍋島藩の領地でした。
外海でも、大村藩の領地では、ポルトガルとの交易のために長崎港を開港し、日本で一番最初にキリシタン大名となった大村純忠の命で集団改宗が行われ、領民のほとんどがクリスチャンになりました。その数3万とも5万とも言われ、日本のカトリックの歴史はここから始まります。しかし、その後のキリシタン禁教時代には、すさまじい迫害の嵐が吹き荒れました。

一方で、鍋島藩は、キリシタン大名ではなかったので、領民への取締りもゆるく、踏み絵なども行われていなかったそうです。

枯松神社

神社としてカムフラージュされた枯松神社には、大きな祈りの岩があり、その岩陰に夜になると隠れて「オラショ」を練習したそうです。このような伝統の継承が行われて、現在もその数は減っていますが、一部カクレキリシタンとして残られているそうです。私たちをここで案内してくれたガイドの松川さんも、そのカクレキリシタンの末裔とおっしゃっていました。

現在、この地域では3割がカトリック、1割がカクレキリシタン、6割が仏教徒で、その仏教徒の内訳は、純粋な仏教徒の他に、潜伏キリシタンで天福寺の檀家になった方がそのまま檀家として残り続けたケースがあるということでした。

禁教が解けたあと、カトリック教会に戻らず、カクレキリシタンとなって行った方々のことを社会的な側面から書いてみます。

先の記事で、天福寺の名前を出しましたが、曹洞宗天福寺は、長崎市樫山町地区にあるお寺で、キリスト教徒への取り調べがゆるやかな佐賀・鍋島藩の領地にありました。
徳川幕府時代の寺請制度で、すべての人は、いずれかのお寺の壇徒にならねばならず、天福寺は、潜伏キリシタンも、事情を知りつつ、壇徒に迎え入れてくれたお寺でした。

こうして、徳川幕府のキリシタン弾圧を逃れ、その間にも潜伏キリシタンとして「オラショ」を唱えていた方々は、キリスト教の禁教が解かれたあとも、禁教時代の恩義を忘れずに、カトリックの教会へは戻らず、ある者は仏教徒となり、またある者はカクレキリシタンとなって行きました。

現地では、ガイドさんからこんな話も聞きました。
近々禁教が解かれると聞いた潜伏キリシタンの活動が少し活発になったのを、お咎めを受けないように庄屋さんが説き伏せてまわった......と。
土地の人々は、庄屋さんがカトリックに復帰しないのであれば、そこを抜けて自分だけ教会に所属はしづらいとも考えました。

これはまさに、「地縁」を大事にしての結果なのではないかと思います。
シンポジウムで出た「つながり」という言葉を期せずして、ここでも感じます。
禁教の時代をかくまってくれた天福寺とのつながり、宗教の違いを越えてかくまってくれた土地の仏教徒とのつながり、村の人々で結束して助け合っていた関係のバランスや庄屋さんとの関係。それを考えると、その「つながり」こそ自分達を助けてくれたものであり、そこを抜けての生活を考えると、現実的には少し厳しいものだったのかもしれません。
稚拙な表現になりますが可視的に例えると、みんなで力を合わせて組体操のピラミッドを作っていたところ、一人抜け、二人抜けてはピラミッドも崩れるし、抜けた者は、その組織に居づらいのではないかと。
そして、それゆえに、結果としてカクレキリシタンとして残った人たちの間で潜伏キリシタン時代の文化が伝承され続けた側面もあったのかと思います。

潜伏キリシタンの末裔のお一人、ガイドの松川さんは、淡々と語りました。
「案外、自分たちが潜伏キリシタンであったという意識もなく、そのまま続けている面もあったのだと思う」。

こうして、社会構造の中で残って来たカクレキリシタンも、年々減り続けている今、文化としてもその伝承の保存方法は考慮されなくてはいけない時期に来ているようです。

3月10日 出津教会

巡礼最後の訪問地は、ド・ロ神父ゆかりの出津教会堂と関連施設です。
外海(そとめ)といい、出津(しつ)といい、漢字の読み方が独特ですね。このあたりは国語学的な関心も刺激されます。

さて、今も「ド・ロさま」の名前で親しまれるド・ロ神父ですが、フルネームは「マルコ・マリ・ド・ロ」。フランスの貴族の家に生まれ、28歳で来日。外海には来日して11年目の39歳の時に赴任。そのころの外海の人々の困窮した暮らしぶりに衝撃を受けたド・ロ神父は、フランスの実家から譲り受けた財産のすべてを捧げて、74歳で亡くなるまでの33年間を外海の人々への奉仕のために尽くされました。

出津地区の潜伏キリシタンは、プチジャン神父の来訪をきっかけに、カトリック教会への復帰が始まりました。1876年にペルー神父が仮聖堂を作り、1879年にド・ロ神父が赴任。1882年には、ド・ロ神父自ら設計した出津教会堂が新たに建設されました。この教会堂は、国指定重要文化財となっています。
信仰の拠点としての教会堂のほか、ド・ロ神父による様々な関連施設が作られ、それらは「出津教会堂と関連施設」として世界遺産への登録に向けた候補リストに名前があがっています。

3月10日 ド・ロ神父記念館

ド・ロ神父

世界遺産登録候補である長崎の教会群の中に「出津教会堂と関連施設」がありますが、その関連施設の方のひとつ、「ド・ロ神父記念館」は、昭和43年11月に開館しました。
記念館の建物は、明治18年にド・ロ神父が鰯網工場として使うために、自ら設計・施工した建物で、翌年からは保育所として使用されたものです。明治時代の洋風建造物として珍しいものであり、現在は国の重要文化財に指定されています。

ド・ロ神父は、非常に多くの分野での知識をお持ちの方で、産業、社会福祉、土木、建築、医療、移住開拓、教育文化などでご奉仕をなさいました。記念館には神父様の遺品が展示されています。

3月10日 「外海歴史民族資料館」でのお話

ここでお別れとなる「NPO法人長崎巡礼センター」のガイドの入口さんのお話を、資料館の1階で伺いました。

入口さんは、巡礼の最初に、「なぜ見つかれば殺される宗教が禁教の間、250年間も続いていたのか?皆さん、旅の終わりまでにご自分なりの答えを考えてみてください」とおっしゃいました。

外海出身の入口さん、外海の人口の実に30%がカトリックであることに触れました。非常に弾圧が厳しい地域で、五島へ潜伏キリシタンとして移って行った人もいる土地です。

入口さんの解釈は、250年間信仰が続いたのは、この厳しいロケーションで、厳しい生活を続けて、なんとか弾圧の時代を生き延びるためには皆がまとまっていなくてはならず、同じ神を信じることが生きることそのものであったのではないか......というものでした。

シンポジウムのまとめで、川村先生が出されたキーワード「つながり」。
この連綿と過去から現在、そして未来へとつながって行く信仰が息づく地、長崎。
入口さんが、「神父様を前にして言うのははばかられるけれど」と前置きして言いました。「この地に、ふたたび、真の意味での宣教師が欲しいんです」。

五島からの毎年の人口の減少、カクレキリシタンの減少などは現実です。
今、世界遺産への登録も望まれている長崎の教会群。その保護と独自の文化「オラショ」などの継承は未来への課題であり、弾圧の中で生き延びてきたキリシタンが、この先の歴史で忘れ去られることがないように、ここで起きていたことを人々に伝える語り部が欲しい......。

そして、「皆さんおひとりおひとりが、どうぞ、この地で見聞きしたことや、ご自分の体験をまわりの人に伝える宣教師となってください。」という言葉をバトンのようにして東京に持ち帰り、自分には何ができるかを考えました。その結果、この長い巡礼記を書くことに致しました。
何か少しでも、皆様の心に留まるものがありましたら、ぜひ、長崎と五島を訪ねてみてください。

ご参考までに、今回ガイドをして下さった「NPO長崎巡礼センター」のリンクを貼っておきます。
http://www.nagasaki-junrei-center.jp/

旅行をご一緒して下さった皆様、本当にありがとうございました。とても充実した、人生の仕切りなおしの旅行となりました。巡礼記はこれで終わります。長きにわたり、読んでくださった皆様、ありがとうございました!

文・大橋慶子(1982文国) / 構成・鈴木真理子(1982文仏)