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報告1-「長崎の教会群とキリスト教関連遺産めぐり」と「長崎県・上智大学連携シンポジウム」参加ツアー

2015年05月12日

 3月6日(金)から10日(火)の日程で開催された、カトリックセンター主催の上記ツアーについて報告します。

 写真にうつっているホアン・アイダルカトリックセンター長、山岡三治総務理事、竹内修一神学部教授、片山はるひ神学部教授、フィルマンシャー・アントニウス神父、アルン・プラカシュ・デソーザ神父、カトリックセンター職員の近藤優子さん、菅原百合子さん、途中合流された髙祖敏明理事長、ドナル・ドイルソフィア会副会長、川村信三文学部教授が参加、卒業生、教職員、学生を合わせて総勢70名でした。

 今年は大浦天主堂での「信徒発見」から150周年となります。1865年3月17日の「信徒発見」は以下の通りです。

 当時、日本は江戸時代末期、まだ禁教令下にありましましたが、フランス人のために1864年、大浦天主堂が完成、翌年1865年2月17日に献堂されました。それから1か月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂に、見物人が大勢来ていましたが、その客にまぎれて、浦上のカクレキリシタンたちがやって来ました。聖堂内のプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、私たちもあなたと同じ信仰をもっています、とささやき、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。そのように、プチジャン神父によってキリスト信者が発見されたのです。

 豊臣秀吉と徳川幕府のキリスト教禁教令、鎖国令により、宣教師達は追放。幕府のキリシタンに対する迫害、拷問は続き、宣教師達は来日できなくなっていた、七世代、250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら、キリストへの強い信仰をもって、代々伝え続けた信仰を守りとおしたカクレキリシタンと呼ばれる信者達がいたのです。 プチジャン神父から見た「信徒発見」は、キリスト信者から見ると、「神父」と「マリア像」を発見したといえます。

 その記念の年に、上智大学カトリックセンターは、上智大学のルーツを日本でたどるツアーを企画しました。

 3月6日(金)羽田空港で集合、空路、長崎へ。
 ツアーの始まりは浦上教会から。
 浦上は、250年間に及ぶキリシタン禁制の時代の中、ひそかに信仰を守ってきた信徒が1867年に次々に検挙されて、3000人以上の信徒が各地へと流配となった「浦上四番崩れ」のあった地。ちなみに「崩れ」というのは、迫害を意味します。
 やがて、海外からこの迫害への批判が増して、1873年に禁制の高札が撤去され、一部の信徒たちが戻り、その信徒たちは30年の歳月をかけて教会を建てました。
 その教会は、のちに原爆の爆心地に近かったために崩壊しました。
スペインのムリーリョの「無原罪の聖母マリア像」の絵をもとに木彫りで作られ、中央祭壇にあった聖母マリアの像も被爆し、廃墟から奇跡的に頭部だけが発見されました。
その頭部は「被爆マリア像」として2005年に天主堂右側の小聖堂に安置され、時として平和を訴える巡礼の旅に世界へと出かけてもいます。

 続いて訪問したのは、『長崎の鐘』など多数の著作で知られる永井隆博士が晩年を送った如己堂と永井隆記念館。

 永井博士の人生は波瀾万丈でした。
 長崎医大を主席で卒業し、卒業式で答辞を読むはずのところ、雨に濡れて急性中耳炎となり、入院。聴力を失うおそれがあったために、聴診器を使わない放射線科に専門を変えました。
 下宿先だった森山家は、キリシタンの禁教時代に帳方(ちょうかた)と呼ばれるカクレキリシタンの指導者の頭を勤める家系でした。その家の一人娘、緑からの影響もあり、軍医として満州事変に従軍して帰国したのちにカトリックの洗礼を受けました。洗礼を受けたのち、この二人は結婚しています。
 1945年に、長年、放射線の研究に取り組んで来た影響で、白血病と診断され、余命3年と言われましたが、それを打ち明けられた緑夫人は、「こんな日も来るのではないかと覚悟していた」と、落ち着いて話を聞いていたそうです。
しかし、それから2か月後、その緑夫人が長崎への原爆投下で自分より先に逝ってしまいました。
 永井博士は、原爆投下時に爆心地に近い大学病院で爆風を受けて、無数のガラス破片を浴びて重症を負いますが、もっと重症の人を助けるために3日間家に戻れませんでした。
3日目に家に戻った時、家のあったあたりは一面が焼けていて、緑夫人もすでに少しばかりの骨を残すのみの姿となっていました。
 その夫人のそばには、ロザリオの珊瑚と鎖が原爆で溶けくずれて一塊となったものが見つかりました。
 このロザリオは、現在も永井博士記念館の方に展示されていますが門外不出の物で、ここに足を運ばなければ見られないそうです。
 その後、永井博士は二畳一間の家を住まいとし、そこに身を横たえ、執筆活動などをしながら暮らしました。とても明るく、ユーモアのある人であったとも聞き及び、記念館には明るい笑顔で闘病中の写真が飾られ、今で言うイケメンです。
 著書『長崎の鐘』をはじめとするベストセラーの印税は、浦上の教会再建のために寄付をしました。
 戦争で自然も失われた浦上の土地を、まず桜の花で一杯にしようと、桜の苗木を千本、浦上の地に植えるために、自分に贈られたお金を使いました。これは、永井千本桜と呼ばれ、上智大学の7号館の下にも、この木の2世が植えられています。永井博士の長男、故・永井誠一(まこと)さんは上智大学の卒業生であることから、植樹が実現しました。

この日最後の訪問場所は、「聖コルベ神父記念館」がある「聖母の騎士修道院」でした。
コルベ神父とは、あのアウシュビッツ収容所で若い父親の身代わりとなることを自ら申し出て、隣人愛に殉じられたコルベ神父です。
 ガイドさんから「私は今日は登りませんが、足に自信のある方は、見学時間内に行って戻れるところにルルドがあります。」との案内がありました。
 このあたりの坂道は、傾斜角度が60度くらいはありそうな感じで、この坂で万一ボールでも転がしたら・・・と想像すると、ちょっと怖かったです。丸い形の落し物は絶対にしたくないような坂です。
 敷地内には学校があり、バグパイプの音が流れていました。ロザリオの玄義のレリーフを眺めつつどんどん登るとコルベ神父によって昭和8年に開かれたルルドの洞窟にたどり着きました。
 ルルドの洞窟では、湧き水が流れていて、ひしゃくですくって少し飲み、祈りました。

(報告2へ続く)

文・大橋慶子(1982文国) 構成・鈴木真理子(1982文仏)