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松本方哉さん講演会「海外特派員から介護ジャーナリズムまで」レポート

2015年10月22日

10月9日(金)18時より、上智大学17階国際会議場において、フジテレビ報道キャスター・解説委員の松本方哉さん(文英)講演会「海外特派員から介護ジャーナリズムまで」が上智大学、上智大学ソフィア会、マスコミ・ソフィア会の共催で開催されました。タイトルに沿った内容で、松本さんの経験と信念を余すところなく伝えていただきました。
現役学生から金祝世代まで、幅広いソフィアンが興味深いお話に熱心に聴き入り、あっという間の1時間半でした。

学生時代

1976年に英文科に入学しました。入試のときの面接官はロゲンドルフ先生です。厳しくて有名な先生でしたが、私は授業を受けていないので、私を上智へ導いてくださった笑顔の優しい先生(神父様)という印象です。
学生時代はとにかく勉強の日々で、学業優秀賞をピタウ先生(学長)からいただきました。サークルには特に入らずに、ミルワード先生の聖書研究会と英詩研究会にいました。メンターは中野記緯先生です。
バイトは家庭教師と、市ヶ谷キャンパス事務室で受付をしていました。当時の市ヶ谷キャンパスには国際部があって、アグネス・チャン、南沙織がいて、受付にも顔を出しました。ホセ・デベラ先生が学長でした。
卒論はジョゼフ・コンラッドを選びました。海洋文学で知られ、代表作には『闇の奥』『ロード・ジム』があります。メンターの中野先生からは大学院で研究することを勧められましたが、それ以上に、コンラッドのように世の中を見てみたい気もちが強く、後ろ髪を引かれながらもメディアの世界へ入りました。
そのほか、アメリカの作家であり漫画家でもあるジェームズ・サーバーにも惹かれました。彼はニューヨーカー誌の専属で、『虹をつかむ男』は映画「ライフ!」の原型になりました。
ニュースJAPANのスタジオのデスクにマグカップが置いてあったのを覚えていますか。そのカップにはサーバーの漫画から「考える犬」のイラストが描いてあったのです。彼の出身地オハイオ州コロンバスで求めました。

さて、ここまではテレビでいうところの「つかみ」です。

これを見てください。ルービックキューブです。子どものころに夢中になりました。動かし方に無数の選択があって、人生を思います。こうして小道具を使うことを、テレビ用語で「物見せ」といいます。

テレビ用語を交えながら学生時代について語り、次にフジテレビでの仕事にうつります。

フジテレビに入社

フジテレビにはドラマ制作志望で入社しました。当時、松本寛(ゆたか)さんという上智の新聞学科を卒業した偉大な先輩がいて、初代のワシントン特派員をなさった方です。惜しくも2007年に亡くなりました。ほかにも報道局デスク2人が上智で、そんな縁で報道局に配属になりました。そんな環境もあってか、報道局とは水があったのだと思います。
若い記者時代には、苦い思い出もありますが、記者は失敗して成長するものです。

30歳のときにワシントン特派員になりました。直前に、つきあっていた女性と結婚して、慌ただしく日本を発ちました。当時の海外特派員は日本へは帰れないことになっていました。アメリカにいた4年間で日本に帰ったのは4日です。アメリカ大統領選の打合せと、昭和天皇の大葬の礼でブッシュ元大統領に同行したときです。ちなみに妻は1度も帰っていません。

アメリカ大統領選は、激戦だった1980年から取材しているので、来年の大統領選挙は、記者として、36年目、9回目になります。
取材は足で回ることを信条としています。尊敬するABCの記者、サム・ドナルドソンは、ホワイトハウスのゲストの車寄せでタバコをふかしながら、要人の出入りを見守っていました。一番に声をかけるためで、記者は影の努力が物を言うと教わりました。
ワシントンでは、1年に150本余の記者リポートを出稿したことがあります。それはいまでも記録となっていると思います。足で回って耕したものに火がついたのです。記者の大事な要素として、観察力、臨機応変さ、そして運が挙げられます。

一番怖かった経験は、パナマ騒乱のときです。当時の独裁者ノリエガ将軍が反対してデモする国民に、マスタード弾を使ったため、取材中の私も突然、息ができなくなりました。広場にいた人たちが扇を開いたようにさあーっといっせいに身をかがめたのを見て、不謹慎にもきれいな扇を見ているみたいだ、と思ったのを覚えています。
ホテルで拘束されて、通信手段も途絶えましたが、一瞬つながったときに、東京へリポートを送りました。その時は、アメリカのパウエル国防長官(当時)がノリエガ政権を攻撃すると脅したので、無事、解放されました。

冷戦時代に、米ソ外相会談の取材で、ジュネーブに行ったときのこと、当時のソ連のアフロメーエフ参謀総長が会議に参加した情報をつかんで、その会議は合意に達すると他社より早くリポートできました。国際情勢は人が動かします。無機質な現象だけを見ていてはわからない、人間を見ることです。

中東やアフリカ以外、世界各地を取材しました。どこでも見たのは、太陽と共に一日を生き抜いて夜床につく、一所懸命な人間の姿です。

湾岸戦争では、米軍のイラク攻撃の第一報を報道センターから伝えました。情報デスクという特別な肩書きがつきました。
9・11の事件のとき、私は土日担当の編集長でしたが、急きょ、情報デスクを頼まれて解説することになりました。丸一日、情報と格闘してお伝えしましたが、日頃の蓄積が物を言いました。ちなみに現場を知るということは、切り取られたテレビ画面の両側に何があるか、わかることです。
イラク戦争のときも、特別報道番組の情報デスクを務めました。
私は「他人の書いた原稿は読まない」主義です。キャスターは取材の蓄積、専門性、取材先との関係が大事です。キャスター職をしていてよかったと感じるのは、人と会えることです。

"家庭内テロ"

ニュースJAPANのキャスターをしていた2007年、神様が試練を与えました。妻が47歳で、くも膜下出血で倒れたのです。「家庭内テロ」と呼んでいますが、家庭内の非常事態を察知できなかった。仕事と介護と子育てで限界を感じたとき、当時小学生の息子が「パパ、ママは大丈夫だよ」と魔法のような言葉をかけてくれました。息子は大学生になった今も大切な介護のパートナーを務めてくれています。
その後、2009年にも妻は大病をしました。今は、「緊張を解かない、油断しない、先を読まない」で暮らしています。

SJハウスにある神父様を訪ねたとき、コリント10章13節を教えていただきました。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
それを胸に、それまで解説委員として専門であった安全保障、国際情勢に加えて、介護と医療を取材対象としています。

厚生労働省は2025年に50歳以上の人口と50歳以下の人口が同数になると推計しています。この未踏高齢化社会の大津波を乗り越えるには、これから2~3年の間の準備がとても重要です。これまで介護ジャーナリズムは重視されないテーマでしたが、これからは医療・介護を見る目を養わなければなりません。
東京オリンピック、特にパラリンピックが都民の超高齢化社会への意識を変えるといいと思います。
医療・介護の近未来日本を思ったとき、上智大学は、「介護福祉系、看護系、理工学系、メディア系、神学系」の学部を持った大学として、世の中を率いる力を持っていると思います。これからは「共生」が社会のテーマになる。その旗を振るのが今後の上智大学の重要な役割ではないでしょうか。

さて、このようにソフィア会で話をしていることは、まるで「放蕩息子の帰還」のように感じます。これから、上智大学とソフィア会のために、できることをしていきたい。

ジャーナリストは一生、ジャーナリストだと言われます。闇の中でもまれながら、なおも成長していきたいと考えています」

講演会の冒頭に、髙祖敏明理事長が登壇され、「これからの上智に松本さんが必要です」と話されました。壮大な講演に若干興奮気味になった参加者はその後の懇親会で松本さんを囲んで、さらに熱心にお話を聞いていました。男性若手ソフィアンの姿も多く見られ、松本さんがソフィア会で講演してくださった意義を深く感じました。
松本さんには今後も講演などをお願いしていきますので、今回参加できなかった方も、次回はぜひご参加ください。

文責:鈴木真理子(1982文仏)