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上智大学創立100周年記念事業・スポーツ講演会(山下泰裕氏)開催報告

2013年05月09日

日時:

平成25年4月23日(火) 17:30~19:40

会場:

上智大学10号館講堂

聴講者:

670名
(髙祖理事長・滝澤学長・山岡総務担当理事・小幡学生局長・サリ学生センター長他教職員・和泉ソフィア会長他役員・常任委員・卒業生・ご父母110名、学生560名)

演題:

スポーツを通した人間教育 -スポーツが果たせる社会的役割-

講師:

山下泰裕氏
東海大学理事・副学長、NPO法人柔道教育ソリダリティー理事長
神奈川県体育協会会長、講道館柔道8段

【講演要旨】

この度は、上智大学の創立100周年誠におめでとうございます。この記念講演会にお招きをいただき大変光栄に思います。
本日は、スポーツと申しましても私は柔道家ですので「柔道を通した人間教育、スポーツの果たす役割」についてお話します。
現在、柔道界は多くの問題を抱え皆様にご迷惑とご心配をおかけしておりますことを心からお詫び申し上げます。今こそ、礼に始まり礼に終わる講道館創立者嘉納治五郎師範の精神に戻って襟を正さなければいけない時であり、柔道家は試合を通して競技が本来持つ魅力を伝えなくてはならないと心からそう思っております。

私は、子供の頃から体が大きく小学校4年生の時には6年生と同じ体格でしたから、あり余る体力をもてあまし悪童の名を欲しいままにしていました。(笑) そんな私に9歳の時柔道を勧めたのは両親でした。以来、柔道に目覚め76年東海大学柔道部で佐藤宣践先生のご指導を受け、77年に史上最年少で全日本柔道選手権大会に優勝しました。その後、全日本選手権9連覇、203連勝の記録を残して現役を引退しました。オリンピックでは、19歳で挑んだ76年モントリオール五輪の日本代表を今一歩のところで逃し、年齢的にも絶頂期だった80年のモスクワ五輪は、ソビエトのアフガニスタン侵攻で日本がボイコットしたため"幻のモスクワ代表"に終わりました。晴れて84年のロサンゼルス五輪無差別級に日本代表として出場した私は、決勝を控え右足を痛め歩行すら困難な状況でエジプト代表のラシュワン選手と対戦しました。私より一回りも大きなラシュワン選手はやる気満々でした。お互いに組み合うや、私が左足を一歩引くのとラシュワン選手が右足で仕掛けたのが同時であったため、ラシュワン選手が体勢を崩し倒れたその一瞬を私は見逃さず寝技に持ち込み抑え込んで一本勝ちを収めたのです。金メダルを獲得した瞬間は夢のようでその時の高揚感を今だに忘れることができません。メダルを手にした選手の多くが感想を聞かれ「国のため、これまで支えてくれた皆様の期待に応えられた...」と喜びを述べますが、私は自分の夢が実現できたことの喜びで一杯でした。同年、国民栄誉賞の栄に浴しこれからの人生に責任と緊張感を覚えたものでした。後日、熊本の小学校時代の同級生がたくさん集まって御祝いの会をやってくれました。その最後に、記念品として一枚の表彰状を贈られました。書かれていたことはこうです。「表彰状 山下泰裕殿 あなたは小学生時代、その類い稀なる体を持て余し、教室で暴れたり、仲間をいじめたりして、我々同級生に多大な迷惑をかけました。しかし今回のオリンピックにおいては、我々同級生の期待を裏切るまいと持ち前の闘魂を発揮して見事金メダルに輝かれました。このことはあなたの小学生時代の数々の悪行を精算して有り余るだけでなく、我々同級生の心から誇りとするものであります。よってここに表彰し、偉大なる"やっちゃん"に対し、最大の敬意を払うと共に永遠の友情を約束するものであります」この表彰状は私の宝物になりました。

我々が国際交流をする際、まず避けて通れないのが東海大学創立者の松前重義先生の存在です。先生は私と同じ熊本県のご出身で、柔道をこよなく愛しておられました。後から聞きますと、私のことを孫のように思って下さっていたようで、様々な経験を私にさせて下さいました。先生が亡くなる前に何度かおっしゃったのは、「山下君、僕が今日まで君を応援してきたのは、試合に勝ってほしいだけではなかったのだよ。選手生命は30歳で終わる。それ以後の人生の方が長い。人は柔道のチャンピオンになれなくても人生のチャンピオンにはなれる。君には日本で生まれ育った柔道を通して世界と友好・親善を深めてほしい。それだけではない。スポーツを通して世界平和に貢献できる人間になってほしい。そんな思いで君を応援してきた僕の気持ちを分かってほしい」ということでした。若い頃は、頭で分っていても私に何ができるのか分りませんでした。しかし、多くの人の力を得てNPO法人柔道教育ソリダリティーを立ち上げて活動するようになって、先生が私を育てて下さった愛情に対し、ほんの僅かでも恩返しができているのかなと思っています。

ここで「柔道教育ソリダリティー」について説明させていただきます。目的は、柔道の核心は教育にあるという基本理念を踏まえ、柔道を通して日本の心を様々な国に伝え文化交流に役立てるとともに柔道の国際的普及、振興のための支援活動を展開することにあります。現在、国際柔道連盟には、200の国と地域が加盟しています。柔道は、一流競技者から一般市民に至るまで広く愛好されていますが、昨今の国際情勢を見ると紛争やテロ、地球環境の劣化、南北格差の拡大等の問題が山積し、一部の発展途上国では柔道の指導者、道衣、畳、教材などが不足し、柔道を学びたくても学べない状況があります。今、大切なことは、柔道を志す子どもたちをいかに育てていくかであります。アフガニスタン、ロシア、パキスタン、ミャンマー、イスラエルやパレスチナ諸国等から大勢の研修生を受け入れ柔道指導者に育て送り帰しています。外国への指導者の派遣も行っています。柔道は、競技としてのみならずスポーツ文化として広く世界の人々に親しまれています。しかし、普及のためにはまだまだ練習環境が整っていない国・地域が多く様々な支援を必要としているのです。
東海大学柔道部監督時代の経験をお話しします。部員の中に礼儀作法に劣り、遅刻ばかりしてくるFという学生がいました。他の部員との協調性にも欠け練習に身の入らない彼はいらないと思ったとこも度々でした。ある時、東海大学病院に白血病で入院していた血液A型の子供さんのため柔道部員に献血を呼びかけ何人もの部員が協力したことがありました。その後、その子供さんは治癒し無事退院しました。暫くして、そのお母さんが私を訪ねて来られ「ある柔道部員の方が、度々献血をしてくれたばかりか、何度か病床にお見舞い下さって子供を励ましてくれました。優しい彼に心から御礼申し上げたい。」と言われたのです。その学生こそFだったのです。私は柔道部員全員を集め皆の前で彼を誉め、称賛の拍手を贈ったのです。その後の彼は一変し、柔道の練習に一心不乱に取り組むようになりました。そして4年次では東海大学柔道部を代表する選手になっていました。自分はいつも陽の当たる場所ばかりを歩いてきて、下積みの苦しみを知りませんでした。人を一面だけから見て判断してはいけないということをFから教えられたのです。教育とは、単に知識や技術を教えることではなく、その人の特性や優れていることを育む手伝いをすることだということではないだろうか。そんなことを考えていてふと気がついたことがあります。私の血液型もA型だったのです。ですが、私はその子供さんのために一度も献血していなかったのです。私はただただ恥じ入るばかりでした。

2006年から、前神奈川県知事の松沢氏の後を受けて神奈川県体育協会長を務めています。体育協会の会長は代々県知事が務められておられましたが、私はやるからには名誉職では済まないだろう、微力であってもなんとか多くの人と力を合わせて神奈川のために働けたらいいと考えました。そこでまず、神奈川県から世界に羽ばたく選手を養成すること、そしてスポーツを通してコミュニケーション力を高め青少年の健全育成を図ること、さらに性別や年齢、障害の有無にかかわらず、だれもがスポーツに親しめる環境をつくること、最後はスポーツ活動を通じて環境に配慮した活動を実践するという4本の柱を掲げました。そして、県の競技団体と市町村の体育協会、中体連、高体連、こういうところの人たちに集まっていただいて代表者会議を開いて全員から賛同をいただき取り組んでいます。もう一つ、私は、スポーツで一番大事なのはスポーツマンシップ、フェアプレーの精神だと思っています。「柔道は本当に教育・人づくりに役立つのか。今や柔道人は勝ち負けを優先する余り、競技会での会場の後片付けができず、マナーが悪い、審判へのヤジが目に余り礼儀作法は最低だ」と言う指導者がいました。インターハイの監督会議でのことでした。もしかしたら我々柔道人は、試合で素晴らしい「一本」の切れ味だけ、形だけを求めて一番大事な柔道の魂、心を忘れかけていたのかもしれません。2001年、講道館と全柔連が協力して柔道の原点に戻ろうと柔道ルネッサンスが立ち上がりました。以来、私は柔道ルネッサンス委員長として多くの人と一緒になって審判への感謝と、対戦相手への尊敬の念の大切さを訴えると同時にいじめ撲滅運動に全力で取り組んできました。大勢でひとりを、強い者が弱い者をいじめるのは日本人がもっとも嫌った卑怯な振る舞いです。これまではコートやグランドの中でのフェアプレーの発揮しか考えていませんでしたが、日常生活の中でフェアプレー、スポーツマンシップを発揮していく。そうなれば、学校の雰囲気が変ってくるのではないか。そこで、神奈川県体育協会の臨時理事会・評議員会に加盟競技団体、教育団体の方にも集まっていただいて、いじめ防止への取り組みについて議論し非常に盛り上がった会議になりました。是非、この運動を成功させ、神奈川から「柔道ルネッサンス」の風を吹き込んでいきたいと思っています。

プーチンロシア大統領との出会いは2000年9月、プーチン氏が講道館を訪問された時から始まります。その後、プーチン氏がモスクワに世界の柔道家を集めて「プーチン杯」を催された時や各種国際大会で何回もお会いし手合せをしていただき杯を交わしています。プーチン氏は、嘉納治五郎師範の講道館柔道の精神をよく心得た方です。2005年に再度日本を訪れた時、世界のマスコミを前に私の宝物をプーチン氏にお渡ししました。嘉納治五郎師範の書かれた柔道の理念である「自他共栄」の書(掛け軸)です。「自他共栄」というのは、自分だけでなく他人と共に栄え合う世の中にしていこうという理念で、相手を敬い、信頼し合い、助け合う心の大切さのことです。これをお見せして「日本とロシアが共に協力しながら発展することを願って大統領にプレゼントします」と申し上げたところ、プーチン氏は大変驚かれ、「これはコピーですか?本物ですか?」と言われたので、ちょっと胸を張って「もちろん本物です」と言いますと「これは僕だけのものにはできない」と言われて受け取りを躊躇されたのです。帰国されたプーチン氏から、書のプレゼントの返礼かと思いますが私に招待状が届きました。「あなたと私が共に柔道着を着て子供たちを指導する機会を持ちたい。それをDVDに収録してロシアでの柔道普及につなげたい」ということでした。私は井上康生を伴ってモスクワに行き子供たちの指導にあたりました。大統領に夕食に招かれたイタリアンレストランでの大統領のスピーチはたいへん印象に残っています。「山下さん、日本とロシアの間には前々から難しい問題がありますが、この問題以外には何もありません。今後もこれ以外の問題を作るつもりはまったくありません。だから何も心配しないで下さい。この難しい問題を両国で知恵を絞って解決すれば何も問題はなくなります。さあ乾杯しましょう!」と言って食事が始まりました。この時、隣に座っていたのがメドベージェフ第一副首相兼ガスプロム会長(当時)です。

【質疑応答】

学生:

現代の子供たちが夢を持てるようにするにはどうしたら良いと思いますか。

山下氏:

夢は人から与えてもらうものではなく自分で考えて見つけ実現するものです。そして、夢を実現するために目標に向かって一歩ずつ前進すること、チャレンジするその精神こそが一番大事なことなのです。過去を振り返らず自分の夢を持ち続けていれば、前に進むことができます。私も、「オリンピックで優勝して日の丸をメインポールの真ん中に上げたい」という夢を持ち続けたから実現できたのです。「自分には夢がある」という心に豊かさがあるから、気持ちを楽に生き生きとした自分を表現できるのです。子供たちが夢を持てる社会にするためには、我々大人も自らの生き方を子供たちに行動で示して見せることが大切なことではないでしょうか。

これまでの自分の柔道人生を振り返ってみますと、選手時代、東海大学監督時代、全日本男子柔道監督時代の私は様々な人々に支えられて自分の夢を実現して来ることができ、感謝の気持ちで一杯です。これからも支えて頂いた分、社会に恩返しが出来るように努力したいと思っております。まとまりのない話でしたが、熱心にお聞きいただきまして感謝申し上げます。ご清聴ありがとうございました。

以上

ソフィア会スポーツ委員長 槇原尚樹 (1970経経)