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【開催報告】
山田五郎さんに聴く 絵画の楽しみ方~没後50年 藤田嗣治展に寄せて

2018年09月06日

2018年8月28日(火) 18時より、上智大学図書館9階921会議室
上智大学・上智大学ソフィア会共催。

 山田五郎さんといえば、テレビ番組『出没!アド街ック天国』『ぶらぶら美術・博物館』などに出演、その博識と誠実なお人柄が人気を博しています。山田さんは文学部新聞学科に入学、在学中にはザルツブルク大学に留学し西洋美術史を専攻されました。1982年卒業後、講談社に入社。各種雑誌編集部を経て、『ホットドッグ・プレス』編集長も務めました。2004年に退社して独立。現在は、フリーの編集者、評論家、タレントとして活躍されています。2018年7月31日から東京都美術館で開催されている『没後50年 藤田嗣治展』を軸に、美術展のみどころと藤田の数奇な人生について語っていただきました。

「大学にはなるべく近寄らないようにしているので来るのは久しぶりです」。「今回は藤田について上智大学で語ることに意味があると思い、講演会を引き受けました」。その理由について「海外で成功する日本人は日本社会では冷たく扱われる。『平家、海軍、国際派』は日本の組織では成功しないと言われ、野口英世、北里柴三郎をはじめ、現代では村上隆もそう。上智大生は世界に羽ばたく人が多いから、他人事ではないはず」。「藤田について言えば、世界で一番高い評価を受けている日本人画家であるが、それにも関わらず、だからこそ、日本では正当な評価がない。それはなぜか」。山田さんのお話で、130年前に生まれた藤田嗣治が生き生きと甦りました。

 藤田がほかの日本人と違うのは、「パリで勉強して日本へ持ち帰る」のではなく、「パリで成功してフランス人から認められる仕事をしたい」という点。モディリアニ、ピカソ、マティスなど、のちの巨匠たちがモンパルナスで新しい芸術を生み出していたころ、藤田も大きな影響を受け、貧しい生活の中で修行を重ねた。1920年代の狂乱の時代に、藤田の人気が爆発。創りだした裸婦の肌色は「素晴らしき乳白色」と賞賛され、作品は売れに売れ、ピカソと並ぶ押しも押されぬ大画家、大名士となった。フランス政府から、ナポレオンももらったレジオンドヌール勲章を贈られた。藤田はお酒が飲めない下戸なのに、連日連夜バカ騒ぎを繰り広げ、名字の一部からFoufou(フランス語でお調子者)と呼ばれた。どんなに騒いでいても腕に刻んだ時計の針が指す夜の9時には仕事をした。〆切を守る人でもあった。藤田は、世界の中で日本人として生きたいがために、日本を強調した悪趣味の恰好をした。当時パリに、日本人画家は400人以上いたが、成功したのは藤田ただ一人。そのやっかみもあって、藤田は国辱であると言われ、日本でその噂が流布した。

 1921年に描いた『私の部屋、目覚ましのある静物』は非常に高い評価を受け自信作となったが、この絵を日本で帝展に出品しようとしたところ、日本では無名との理由で一般審査に回されることになり父が激怒して出品をとりやめた。その後、1949年に日本を離れる際、日本に寄贈しようとするも断られた、藤田と日本画壇の関係を示す象徴的な絵でもある。それ以降、フランスで大成功を治めて日本へ帰国すると冷遇され、傷ついてフランスへ戻ることが繰り返された。

 藤田の人生の特徴のひとつに、生活や仕事で嫌気がさすと女性を変えることがある。藤田は生涯で5回結婚した。最初の妻トミさんからお裁縫を習い、2番目の妻フェルナンド・バレーからは私がフジタを育てた(藤田は否定)と言われ、3番目の妻ユキ(リュシー・バドゥ)は雪のような肌のモデル、4番目の妻マドレーヌ・ルクーとは謎の中南米旅行をした。帰国して日本にどっぷり浸かった生活をする中、純日本風の顔立ちである君代と出会い、残りの人生を共にした。藤田が女性と別れるとき、「自分が女性から捨てられた」と表現するが、それは女性が藤田から離れるように仕向けるのが上手なのだと言われている。同じ表現は日本に対してもあり、戦後「日本から逃げた」と言われると、「日本から捨てられたのです」と返している。

 フランスでいくら大絶賛されても、藤田は日本の大衆の心を捉えたいと願っていた。そこに登場したのが戦争画というジャンルだった。第二次世界大戦へ進む中、軍部は戦意高揚のために、画家を動員して戦争画の製作を始めた。藤田もそのうちの一人だったが、深く関わるきっかけは荻洲中将からの依頼だった。ノモンハン事件を記録に残したいとの意向で描いた『哈爾哈河畔之戦闘』は巨大なキャンパスに勇敢な日本軍戦士が描かれている。実はこのタイトルの絵は2点あり、もう1点は凄惨な戦場の図であったとされる。戦争画について藤田にはピンときたものがあった。大画面に描けること。『アッツ島玉砕』は全国巡回をし絵の前で拝んで泣いている人がいた。自分の絵で人を感動させたことで藤田は感激した。『サイパン島 同胞臣節全うす』は非戦闘員が殺される場面で、それは藤田にとってドラクロワの『キオス島の虐殺』と同じだった。戦争画はヨーロッパでは伝統の一つであり、藤田は圧倒的な手応えを感じていた。藤田が日本画壇で活躍した唯一の時期でもあった。戦争に賛成・反対の思想性はなく、絵で悲劇性を伝えたいという気もちだったと考えている。

 戦後、日本美術家協会は、GHQから頼まれてもいないのに戦犯リストを作り、藤田ひとりに戦争責任を押し付けた。そこにも日本の社会の悪弊がみられる。誰も追及していないのに「もし来たらどうする」とスケープゴードを差し出す。藤田は戦争協力者として非難を浴び、その風潮に嫌気がさして、1949年、日本を離れた。「日本画壇は早く世界水準になってください」とうらみ節を残して。
 ビザが下りずアメリカを経由して戻ったパリはすっかり様変わりし、友はこの世を去るか亡命していて、マスコミも藤田について「亡霊が帰ってきた」と揶揄した。それでも藤田は絵を描き続け、再会したピカソとの交友は晩年まで続いた。

 晩年の藤田作品の特徴に、谷口ジローの漫画のように描きこむことと、ほとんど同じ表情の気もち悪い子どもをたくさん描いたことが挙げられる。子ども像には奈良美智も影響を受けたと言っている。1955年にフランスに帰化、1959年には、ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受けて、レオナール・フジタとなった。マティスがヴァンスにロザリオ礼拝堂を作りそこに埋葬されたことに触発されて、自分のための教会を作りたいという願いもあったが、幼き日、暁星で神父様からフランス語を学んだのでカトリックにはシンパシーがあったと考えられる。1959年に100㎏の羊皮紙に、フジタ、ダリ、ビュッフェら7人の画家がヨハネ黙示録を描く企画があった。ほかの画家は手を抜いている印象があるが、フジタが描いた3枚は、細密に描きこみ、真剣に取り組んだことがわかる。フジタが描きこむと平面的で漫画的になるが、宗教をわかりやすく深めたとも考えられる。ランスに建てられたフジタ礼拝堂の内壁はフレスコ画とし、80歳で初めての技法に挑戦した。フレスコ画は漆喰が乾く前に水性の絵具で絵を描く技法で、早く、一発で描くことで集中力が求められる。礼拝堂の完成と同時にフジタはぼろぼろとなって体調が悪化、チューリヒの病院に入院し、翌年に天国へ上った。晩年のフジタは日本人嫌いで誰にも会わないと噂されていたが、実際にはフジタは訪れた人には喜んで会っていた。高階秀爾先生は、パリ附属会という東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学)関連の会合に行くと、フジタは必ず来ていたと語っている。家では日本食を好み、浪曲や都々逸を聴く生活で、本当は日本へ帰りたかったのではないかと推察される。以上、世界で一番有名な日本人であるフジタが、どうして日本で受け入れられなかったのか、展覧会を通して学びとってほしい。

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 藤田を解説するというより、藤田に代わって、藤田を理解してほしいとの山田さんの願いが伝わる140分の講演に、満席の200人は夢中で聴き入りました。展覧会を企画した朝日新聞の小渕洋子さんもソフィアン。小渕さんは、2009年に君代夫人が亡くなってようやく自由に企画ができるようになったこと、5年以上をかけて国内外多数の美術館から作品を集めてきたこと、この規模では二度と開催できないと思われることを話されました。美術界におけるソフィアンの大活躍に心を鷲づかみされた一夜でした。

鈴木真理子(広報委員会副委員長、1982文仏)

講演は予定時間を大幅に過ぎ、約2時間に

懇親会では、山田さんに挨拶する人の列が