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広島大会記念講演「被爆70周年、私にとっての広島とは?」

2015年10月22日

去る10月3日、広島市のホテルグランヴィアで行われた第7回地域ソフィア会全国大会「2015広島大会」で、広島出身の髙祖敏明理事長が約30分にわたって記念講演を行いました。その内容をレポートします。

広島とイエズス会、そして上智

私は広島の生まれですが、戦後生まれなので、原爆のことは実際には知りません。
イエズス会と広島との関係を通して、語っていきたいと思います。

1925年、広島県の草津に土地を買って、当時の教皇ピオ10世が日本にカトリック学校を作る計画がありました。しかし、呉に軍艦工場があるため、外国人の関わる学校はダメということで、実現しませんでした。そのころ、大学では、上智をソフィアと表記するようになり、学友会が名前を変えて、ソフィア会が発足しました。

1938年、広島の観音町にイエズス会の哲学院ができました。1942年のはじめに、麻布本村町、四の橋の近くに移り、ルーメル神父がまだ神学生で勉強をしていました。

イエズス会の学校をまとめますと、1938年に神戸に六甲学院が、47年に栄光学園、56年に広島学院、そして、83年に福岡に泰星学園が創立されています。1938年、広島の長束に修練院ができました。東京ではクルトウムハイム裏に修練院があって、日本人二人とフィリップ・フェルケン、グスタス・フォスさんが司祭になるための勉強をしていました。

1945年1月、戦争が激しくなってきたので、東京神学院が広島の長束へ移転しました。広島にいたアルペ神父や、35人の若い神学生が広島に集まりました。

そのころ東京では、4月13日から14日にかけての空襲で四谷は焼けました。1914年の関東大震災で被害を受けた赤レンガ校舎を基にした1号館はなんとか延焼をくい止めることができました。5月25日から26日の空襲でイグナチオ教会が焼け落ちました。7月1日にはルーメルさんが特例で司祭になりました。言ってみれば繰上げ叙階というわけです。

原爆投下と神父たち

そして、8月6日に原爆が投下されました。アルペ神父はマドリッド医学部出身なので医学の知識がとても助けになりました。

アルペ神父は1938年来日。1939年には富士山に登っています。1940年、山口教会の主任司祭。1941年の開戦の日、外国人ということで憲兵につかまります。12月8日から一か月刑務所にいました。
その年のクリスマスでは、信者たちが刑務所の外でクリスマスの歌を歌い、励ましたそうです。その中には当時陸軍にいた森脇隆夫神父のご家族もいたそうです。

どうして広島に原爆が投下されたのか。
広島は30万~40万人の都市で、軍都として重要でした。第二軍管区本部が置かれ、宇品には陸軍の施設があり、主要な港でもありました。
それなのに、本格的な空襲がなかった。
ラサール神父、フッサール神父など4人の神父は、毎朝4時半にB29が広島上空を旋回するのを見ながら5時からミサの準備に入るのが日課でした。
8月6日の朝、7時55分にB29が来たけれど10分後にいなくなった。そして8時15分、原爆投下。
爆心地から長束修練院は6キロ離れていました。アルペ神父は、まさしく「ピカ、ドン」と表現されました。

アルペ神父の記述です。
8時15分、マグネシウム・フラッシュのような光で飛び上がった。
ハリケーンのような強風、恐ろしい爆発音、粉々の戸。90キロのドイツ人が爆風で数ヤード飛ばされた。3~4秒が永遠のように感じられた。修練院の庭に爆弾が落ちたと思ったが、修練院はかすり傷ひとつなかった。
目の前に壊滅した広島市が見えた。そこは炎の海、黒い雨だった。

長束にやけどを負った人たちが逃げてきました。修練院の建物が残っているので目指してきたのです。
お聖堂は畳敷きで150人収容しました。その人たちは1人も死んでいません。けが人は、打ち身、木材やガラスが身体に入ったケースが多かった。やけどの人たちは、火でやけどを負ったのではなく、爆発の閃光を受けた30分後に水ぶくれ、4~5時間後にやけどの状態になりました。放射能による筋肉の破壊なのです。

修練院で働いていた人が家からホウ酸を持ってきて、翌日から傷口を洗って湿布を繰り返しました。それがよかった。筋肉再生に力を与えたのです。

修練院では、広島市内にいる4人の神父たちをどうやって救うかが問題でした。16時に1人の少年が4人の伝言を持ってきました。「浅野公園に逃げて生きています」。17時に、アルペ神父はじめ7人のチームで公園入りしました。そして22時にようやく再会。
重症の神父を先に担架で長束へ運ぶことになりました。川沿いの道を歩いて、途中2回、川に入らなければなりませんでした。外人同士で歩いているので、軍人が軍刀を抜いてきたこともあったそうです。
ルーメル隊はラサール神父を救出しました。ラサール神父も背中にガラス片が50個もあって出血がひどかったそうです。

原爆では、尾原神父のお父様が亡くなりました。ソフィア会主事だった星島さんのお父様と伝道士でいらしたおじい様も犠牲になりました。その星島さんがいまここにいらっしゃるのも不思議な縁です。

「叡智が世界を救う」

8月15日、終戦です。
9月5日に3人の従軍司祭が上智に来ました。その一人、チャールズ・ロビンソン神父は、関東大震災のときに上智にいたので心配して来たのです。
何がほしいか聞かれたので、神父がほしいと。ウィリアム・カリー神父、ヨゼフ・ピタウ神父が日本へ派遣されました。それこそが「叡智が世界を救う」です。

さて、幟町教会の主任司祭、ラサール神父は、1946年、ローマに行き、教皇ピオ12世に謁見、広島に平和を祈念する聖堂を作りたいとお願いしました。そこでいろいろな国や地域から贈り物があって、ケルンからはパイプオルガン、デュッセルドルフからは玄関の扉、ベルギーからは祭壇、というふうに作られました。1950年8月6日に着工して、1954年8月6日に献堂式が行われ、世界平和記念聖堂が完成しました。

1945年の10月には上智で授業が再開され、12月には幟町教会でシュワイツァー神父がクリスマスミサを挙げています。

世界平和記念聖堂の鐘はイグナチオ教会と兄弟です。兵器を作成していたドイツ人が鉄を集めて鐘を作り送ったそうです。武器が平和の道具に変わったわけです。

広島学院はアメリカの信者の寄附によって、原爆の贖罪もあって設立されました。
初代校長はシュワイツァー神父で、4代目にアメリカ人のロバート・ラッシュ神父が校長になりました。

1981年2月25日には当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が広島を訪れました。
上智大学創立100周年の2013年に、「平和を求める祈り」が新井満さんによって作曲され、今年2015年が戦後70周年ということになります。

文責 鈴木真理子(1982文仏)