SOPHIANS NOW No.179 Spring 2016
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No.179/Spring /201615助産師と一緒にパパママ体験― 上智大学は2014年、文部科学省のスーパーグローバル等事業「スーパーグローバル大学創成支援」グローバル牽引型に採択されました。 上智大学は初めからグローバルな学術体系を備えていました。イエズス会そのものがグローバルな学識と行動を兼ね備えた修道会です。学識とは神様の意図の解明ともいえますし、修道者はその実習者なのです。  グローバルとは単に英語ができるとか海外と交流することではありません。多様な背景をもつ人たちとつながり、その人たちの存在と思考を大切にする、ひとりひとりの人間を尊重するということです。とはいえ、論文を読んだり、交流をはかるために、英語は必要です。やはりアングロサクソンは世界を動かしているところがありますから。さらにPh.Dのためにはフランス語やドイツ語も必要です。スペイン語も文芸上使用される国は多いです。― 今は、中国も世界に大きな影響力を持つようになってきました。 ですから、中国語も有益です。日中関係を勉強し始めると、面白くてやめられません。2014年、夏季ダボス会議に参加するために中国の天津を訪れたとき、天津博物館へ行きましたら、母方の祖父芳澤謙吉が宣統帝(愛新覚羅・溥儀)から享受した書が丁寧に飾られており感激しました。周恩来を偲んで造られた広い公園にある博物館では、宣統帝の宝物が大事に遺されていました。面白いところですからぜひ訪問してください。― その一方、日本と中国の関係は悪化していると報道では見聞します。 マスコミの流す単純なナショナリズムで行動してはいけません。中国は一党独裁と言われることがありますが、あの大国でそんなことができると思いますか?そもそも、現代において、一国だけが進歩することはありえないのです。相互理解と分かち合いで進歩していく時代なのです。 天津のダボス会議に、日本からはどんなメンバーが来ていたと思いますか?経団連のトップがそろって出席していました。日中関係を大事にして、実態に対応している人々です。専門家同士のハイレベルな交流もお互いを発展させています。― ところで先生は、1980年から91年まで上智大学で教鞭を取られました。そのいきさつを教えてください。 ユニセフ(国際連合児童基金)の議長をしていたときでした。フィリピンのごみの山で貧しい人々を手伝っている私をピタウ先生がご覧になり、学問と現実を結びつけた教育のため、上智の教授にと誘われたのです。当時、ピタウ先生は、自ら新宿駅頭に立って難民援助のための募金活動をされたり、休暇中に学生をフィリピンやインドシナに連れて現地の体験教育をされるなど、尊敬すべき方でした。のちに国際関係研究所を作られ、同僚には蝋山道雄さんや武者小路公秀さん、鶴見和子さんもおられました。自由に研究できる素晴らしい環境でした。その後上智では外国語学部長、国際関係研究所長も務めました。― いつも、世界を飛び回っていますね。 私は外交官の父とともに、アメリカや中国で幼少期を過ごしました。第2次世界大戦後に聖心女子大学の第1期生として卒業し、ロータリー財団の奨学金を受けてアメリカのジョージタウン大学へ留学しました。聖心女子大学の同級生40人のうち、過半数がアメリカやフランスへ留学しました。戦争に負けたばかりの日本から、豊かなアメリカへ行き、大学生活を張り切って過ごしました。ジョージタウン大学で外交史を学び、修士号をとって日本へ帰りました。みんなが新しい戦後を作ろうとしていた時代です。帰国後は、日本政治史を学んで、日本の位置付けを知りたいと思いました。私の曽祖父は内閣総理大臣の時に、5・15事件で殺された犬養毅ですし、母方の祖父も父も外交官で、軍部には苦い思いを持っていた家系でした。そんな環境に育って、「日本はどうして戦争をしたのか」について、反省と好奇心を持っていました。日本政治史は、東大法学部の岡義武先生の研究室で3年間、指導を受けました。その後、研究の進め方を相談したところ、国際政治学の理論を学ぶことを勧められ、カリフォルニア大学バークレー校の博士課程に行くことになりました。このときの研究はのちの国連難民高等弁務官(UNHCR)や国際協力機構(JICA)の仕事でたいへん役に立ちました。 博士号をとって帰国、その後結婚し、しばらくして国際基督教大学(ICU)の非常勤講師になりました。子どももまだ小さかったですし、大変な毎日でした。ICUでは、東アジアの国際関係史を教えていましたが、参議院議員の市川房枝さんの要請で、国際連合総会日本代表団に加わることになり、それ以来、国連と関係するようになったのです。― 今はネット社会になって、居ながらにして世界の情報が見られるという人もいます。 しかし、インターネットの情報は、私にとって十分ではありません。緒方の父が朝日新聞の主筆を務めていましたから、今でも、自宅では、朝日、毎日、日経と、ファイナンシャルタイムス、ジャパンタイムスを購読し、それぞれの紙面を読み比べています。ファイナンシャルタイムスは目のつけどころが鋭いと思います。― アフリカのルワンダに、「オガタサダコ」という名前の女の子がいるそうですが、先生のおかげで助かった命は数えきれないでしょうね。 私は現場主義なので危険なところにも行きます。そこにニーズがあるからです。難民支援をするのは、人道的な必要性が大きいからです。― 世界を支えた緒方先生が上智で教えていらしたことを誇りに思います。 私は働きながら学び、学びながら働いてきました。いまも勉強は続けております。上智大学はグローバルな勉強と研究の環境が備わっているのですから、ここで学んだ皆さんは幸せです。今後の活躍を期待致します。― ありがとうございました。Go Global Sophians!緒方貞子 上智大学名誉教授上智は初めからグローバル。上智で学んだみなさんは幸せです。33独立行政法人国際協力機構(JICA)理事長、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官などを歴任された緒方貞子上智大学名誉教授。現在もJICA特別フェローとして、そして日本を代表する国際政治学者としてグローバルに活躍されています。その先生は今の上智大学、さらには今の世界をどのようにご覧になっているのか。JICAの執務室でお話を伺いました。

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